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『神輿の花道を未来に繋げる地元愛』
              山口 元

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山口会長

2年にわたり神輿渡御が行えない状況の中、睦会の歴史や、祭を支えてきた地元の人々の心意気など、代五睦会の山口会長にお話を伺いました。

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山口さんが代五睦会長になられたのはいつ頃ですか?

一昨年ですから、令和元年からですね。実は父、昭次が四代前の会長でした。

自分の前が大津さんで、その前は黒木さんがやってその前が望月さん、でその前がうちの親父。

父は茨城の生まれ、母が代沢なんで、入り婿なんですよ。

こちらに移ってきて、畳屋をはじめまして、今は形態を変え、内装業をしています。おじいちゃんは左官屋さんでして、代々みんな違うんですよ。

職人一家という事で、やはりお祭りは代々大好きということですよね?

まぁ、牧野さん家(代四睦会長)程ではないですけどね(笑)。

地元でそれなりの立場になるとやはり、やらざるを得ないというのもあったろうし。

この写真が、昔の御酒所の風景ですね。父と、今の商店会長の佐藤さんのお父さん、小池ビルの小池さんのお父さん、で家の前の果物屋の関谷さんのお父さんですね。みんな亡くなりましたけどね。

昭和57年の御仮屋でのようす

これは、いつ頃の写真ですか?

昭和57年頃ですね。これは、もう代五睦になってからの写真です。

実は、代五睦と代四睦は、共に旧北沢一丁目で一つの睦だったんです。

それが昭和39年の町区域の変更で、代沢四丁目、代沢五丁目と町が二つの分かれた。それで、しばらくは二つの睦で神輿が一つという時代があったんです。

この写真は、その頃のものですね。僕と牧野さんが一緒に担いでいます。

旧北沢1丁目の渡御

これは歴史を物語る貴重な写真ですね。その後、代五睦で独自の神輿を作られたのですね。

1年毎に今年は代四睦、今年は代五睦と担いでいたんですがやはりそれじゃつまらない、自分たちの神輿を作ろう、というところから始まったんです。

で、昭和53年ですかね。

当時はまだ、自分は学生だったんですが先輩達、今70歳くらいの方々が10人から15人くらい居たのかな、毎月1万円の積み立てを2年間したんですよ。

自分たちはまだ学生だったので月に2000円とられてました。

だから自分のお金も48,000円入ってるんですよ(笑)

それで、当時会長だった親父が、

「分かった、その元手があるんだったら、新しい神輿を作ろう」

と言うことになり、募金を集めるためみんなでチームを作って、五丁目、全部歩いたんですよ。地主さんも出してくれたし、四丁目さんからも。

この写真が、新しい神輿の写真ですね。

作った当時は大きい方だったんですよ。

まぁ、今では周りがみんな大きくなっちゃったんで、そうでもないんですが。

担ぎ手の中に『旧北澤一丁目』の半纏を着ている人も居ますね。

これも歴史を感じますね。

そして、これは新神輿での初の宮入りの写真。丁度、神輿が完成した昭和53年は、神社の社殿が完成した年でしたね。

山口会長と先代

代五睦のこだわり、とは何かありますか?

そうですね。睦ではみんな『代五睦』の半纏の元に一つとなって神輿を担ぐんです。

地元、代五睦会は純粋に町の祭りバカばっかりで(笑)

昔、塚越さんが居た頃は色々な神輿会とのつきあいもあったのですが、そういう方々も含め「代五の半纏だけで担ごう」ってことになって、それから、絆も深まり凄く盛り上がったんですよね。

代五の半纏
半纏
昭和53年例大祭

地元の盛り上がりと言えば代五睦はとても大きい山車(だし)を、多くの子供達が楽しそうに引いていますよね。

子供の土産も土日で200個位は出ますから。

やはり、子供の時から祭りの楽しみを覚えていてくれると、大きくなったら、また参加したいってなるんでね。

自分も祭りの時は神輿より、いつも子供の山車について回っていました。地元の祭りを支える大事な事ですね。

祭りも世代を繋ぐ事がとても大事ですね。

山口さんが会長になられたのも、やはり世代を繋ぐという意味もあったのですか?

睦会では自分の先輩、70代くらいの人がいっぱい居たんですよ。

でも、自分の年代、誰も居ないんですよ。

鈴木さんが会長やるのかな、と安心していたら上にあがっちゃったんで、さて困ったぞ、と。

で、自営業の人も少ないので会長になりました。

最初、望月会長の時に「惣町っていうのはお酒が好きな人には凄く楽しい所だよ」って、半分騙されて入ったんですけど(笑)

でも、楽しかったです、何も考えずに遊べたから。

だんだん年齢を重ねてきて責任持たなくてはいけなくなってくるとやりがいもあるのかな、と。

やっぱり、地域の絆というのかな、この八町会が一つの方向を向いて一つの事をやっているというのは凄いところですよ。

惣町に入ってから他所のチームがどんな事をやっているのか分かるんで、視野が広がるんですよ。

会長になったら会長になったで、また違う視野が広がるから。

こういう伝統行事は、やっぱりちゃんと繋げていかないといけないと思うんです。

代五睦の大太鼓
子供神輿

そんな熱い思いを胸に会長になられた矢先に、新型コロナ禍で2年連続で神輿の渡御が中止になってしまいました。

そうなんですよ。張り切ってやろうと思っていたのに、何にも出来ないんですよ。

今年は宮神輿も出るし大変だぞ、と意気込んでたんですけど、何にも無くなっちゃった。本当にこれで良いんだろうかと。

実は年番というのは、8年前に経験しているんですが、がっつり、ちゃんとやろうとすると睦会の結束が固まるんですよ。

やることも多いけれど、青年部から総代から町の人もみんな応援してくれて固まるんで、あと8年もつんです。バラバラにならない。

それをやりたかったんですが、出来ない。

でも、やはり睦の中にも担ぎたいっという気持ちは溜まってきていると思いますね。青年部の突き上げも凄いですから。

だから来年は凄く盛り上がるんじゃないですか。宮本も女神輿を出すって言ってますから。

ところで最近、茶沢通りのお店もだいぶ変わってきましたよね。地元のお店とお祭りとの関係も変わってくるのでしょうか?

まぁ、いっぺんやれば楽しいんですけどね。

今は残念ながら2年中止が続いていますから…

うちの方の商店街、代沢通り共栄会にはいつも応援して頂いてますが昔は120軒くらいあったんですよ、お店が。

普通に若い衆もいっぱいいたし、商店主もいっぱいいたし、職人もいた。

今は商店街に入っているのがたぶん70数件くらい。お店やっても商店街に入らない人も居ますからね。間借りしているような小さなお店の若い人達とか。

これから厳しくなるのかなぁ、とも思いますが…

でも、今までそうだったように、必ず地元から祭好きが出てきますから。

やはり茶沢通りは、宮入前に神輿が大集合して渡御する祭りの花道ですから、町を挙げて盛り上がって欲しいですね。

お祭りの時はうちの旗の下に八町会の神輿が集まってくれますからね。

三差路から茶沢通りの渡御はメインストリート、いわば神輿の檜舞台です。宮本ではないのに、全部の神輿がわざわざ来て頂いてありがたいことです。

ただ、その立地の恵まれた環境に甘えること無くこれからも、祭りをしっかり盛り上げていきたいと思います。

将来的には下北沢の駅前広場が整備されてきたら八町会の連合渡行の出発が駅前になる、とも言われていますが、そうなるとまた、違った盛り上がりになる可能性もありますよね。

それまでは、代五睦が中心となって頑張って盛り上げます。

代沢三差路

最後に代五睦の目標、意気込みをお聞かせ下さい。

まぁ、他所の睦に負けないように八分の一の一角を担ってちゃんと続けていきたいですね。大事なのは継続ですね。

今、うちは青年部がしっかりしてきたので大丈夫だと思います。

代五睦会の皆様

本日はどうもありがとうございました。

(インタビュアー・文/代四睦総代 伊東雅司)

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