『時代に寄添い伝統を守り続ける
「祭りの本丸」』
大平剛嗣


形のない大切な文化を次世代へ受け渡すために、『睦』を守る方々の尽力は途切れることなく続いています。神社のお膝元、宮本睦会の大平会長にお話を伺いました。
※インタビューは、例大祭前の令和4年7月19日、北澤八幡神社にて収録。

大平会長がお祭りに関わり始めたのはいつ頃でしょう?
いや、結構、遅いんですよ。
私の家は、親父の代から池の上の『丸浅』という呉服屋でして、昭和22年に豪徳寺で創業し、私の生まれた年、昭和28年に池の上へ移ってきました。
だから、生まれた時から宮本睦ですが、子供の頃は、お祭りはあまりやっていなかったんですよ。
2、3歳の頃から親父の作った別注の白い半纏(はんてん)着たり、お祭りの格好だけはしていたのですがね(笑)

呉服屋さん、と言うことでやはりお父さんはお祭り好きだったんですか?
いや、親父は奉納などで応援はしていたのですが直接お祭りには関わってはいなかったですね。
私も小中高の時は直接関わらず、大学時代、20歳の頃、お祭りに誘われたんです。
でも、当時は違うことに趣味があったので…
その趣味とは一体何ですか?
私は車が大好きでして、山岳ラリーに夢中だったんです。
競技にも出たり、とにかく乗るのが好きで、山の中を走り回っていました。
当時はそっちの方に興味があったため、祭りにはちょっと…
で、その後、大学を出てすぐ、23歳からは名古屋に修行に行きました。
池の上に帰ってきたのが27歳の時です。

なるほど。では、地元に戻ってきてから本格的にお祭りに関わるように?
そうです。帰ってきて、すぐに地元の仲間に誘われてね。
ちょうどその頃、後輩達が若睦を作りたいという動きがあって、そこに協力してほしいと言うことで、宮本睦に入ると共に「白半纏の会」、若睦「本むら会」を作りました。
家が呉服屋なので、いろんな地域のお祭りとは関係があって、7、8人くらいで他所にも担ぎに行っていたりしてたんですよ。


そこから、宮本睦の活動を中心に活動をなされてきたわけですね。
睦の活動と共に惣町睦の仕事にも早くから関わっていましたね。
33歳の頃、惣町の代理などから始まり祭り全体を盛り上げる側も20年以上やってきました。
古田さんが惣町睦会長の時かな、新野睦さんと一緒に第一回目の惣町旅行もやりましたね。その時は宮本睦でも副会長を兼任でやっていました。
で、沢田会長の時、惣町睦を辞めて宮本睦に副会長で戻り、それ以来、睦中心で活動していますので、祭りは40年以上はやってます。
だから、子供の頃からずーっと担いでいた代四睦の牧野さんとかとは、ずいぶん違うんですよ(笑)
大平会長は本業が呉服屋だけに、宮本睦の半纏作りにも何かこだわりとかは?
もちろん宮本睦の半纏(はんてん)を作っています。中でもこの字体ですね。
これは、「笑点」でもお馴染みの橘流寄席文字、その橘流家元である橘右近さんのお弟子、橘右之吉さんに頼んで書いて貰いました。
宮本睦の手ぬぐいが毎年、色が違い素敵。これも宮本睦だけですよね?
本染めでやってます。
うちが呉服屋なんで、普通に発注するより、安く出来ますからね(笑)

ほかにも北澤八幡八町会の中で宮本睦ならではの特徴とかありますか?
宮本睦は他の睦とは違い、町会には属さない独自の会なんです。
自分達の会費と奉納金だけで運営しています。なので、独自に運営してきた歴史があって…
たとえば、私が入った頃、睦には女性は一切入れなかったんですよ。
昔の考え方の人が、ずっと居て「女なんて、とんでもない。会員には絶対、入れない!」という方針で。だから入った頃、睦の会合とか宴会にいっても、男ばっかり。女性は1人も居なかった。
また昔の宮本睦の会長っていうのは、何もしなかった。紋付き袴を着て先頭を歩くだけ。
やることは副会長とか惣町とかが全部やってましたね。とにかく会長は動くことはなかった、居てくれれば良い、という存在でした。
それが昔ながらの睦の姿だったんですね。しかし時代と共に変化していったと。
そう、それが2000年頃ですかね、古宇田会長の時でした。
「これではまずい。町会とも仲良くしよう。会長がもっと動こう」と転換期を迎えました。
女性会員の件も含め、これからの時代に合わせていろいろ変えていったんです。
今では町会の方に400人分のカレーも作ってもらってます。

睦も新たな時代を迎えたんですね。
神輿も二代目ですよね、新しく作った経緯を。
平成七年に新しい神輿を造りました。前の神輿は八町会で一番小さかったんです。
それで、睦の中からも「なんとか大きくしたい」と言う話がね。
しかし、大きくしても担げるのか?
そんな話も出ましたが、結局、大きな神輿になりましたね。
当時で最低でも1500万円かかるということでしたが、みんなから集めて、新しい神輿を造りました。
それからは、新しい神輿を担ぐためにも人を集めなくてはいけないってことで、いろんなところの同好会さんにも声を掛けるようになりました。宮本睦も変わり始めたんです。

宮本睦のエリアは高級住宅街ですよね、担ぎ手を集めるご苦労とかは?
芸能人や政治家、大使館やその関係者なども多く「ちょっと、担ぎにきませんか」と安易に言えるような人達じゃないんでね(笑)
八町会で一番エリアが広い宮本睦ですが、中々、担ぎ手を集めるのは大変でした。
現在は池の上が中心で100人くらい会員がいます。
さらに、その正会員として活動してくれる人達とは別に、担ぐだけという方も準会員として迎えています。
この辺りに住んでいなくても、池の上の飲み屋さんとかにいつも来ている常連さんとか、このエリアにいつも来る人を準会員として登録し、個人の名前入りの半纏を作り神輿をかついでもらう、その人数も結構増えてきた。
まぁ小さい店なので、あの店で8人、こっちは6、7人、とすぐにグループが出来ちゃう。
規約があって、数年はお祭りの手伝いに来てくれたことが条件なんで…
申込書には「宮本歴何年」と書かれているんですよ。何年か手伝いで歴を重ねると、では半纏を作りましょう、となる。
半纏を着たら準会員扱いですから、変なことは出来ませんよ、とね。
それだけでも、今は60人近く居ますね。

現在、宮本睦の御神輿は?
お話しした平成7年に造った新神輿がメインです。
後は子供神輿と山車(だし)に加え、それまで担いでいた旧神輿は土曜日の宵宮に出したり、8年前の年番の時には女神輿として出しましたね。
当時は副会長だったので、私がその担当をしました。
女性らは会員で無くても、事前に申し込みさえすれば担げるようにしました。
その時は女神輿用にピンクの手ぬぐい50本用意したんだけれど全然足りなくて、女の子だけで80人くらい来ちゃって。
責任者も女性で、男は手を出すなって(笑)
八町会の中で女神輿はうちだけですね。その時は、二基で宮入したんですよ。
コロナとか無かったら、年番の今年も出したかったんですけどね。

最初は「女性なんか」といっていた宮本睦が、今や唯一の女神輿を出した睦に。
まさに時代に適応した改革を行ってきたんですね。
宮本睦は、ある意味で言うと、八町会の中でしめつけとか、決まりとかが一番ゆるいと思いますよ。
特に会員になることとかに関しては「来る者は拒まず」でね。
規約をちゃんと読んで、説明を受け、納得してくれるなら、どうぞ、と。
新しい神輿を造ったときに、やっぱりどこかにお手伝い頼まなければしょうがない、会員を増やさなければいけないのであんまり厳しいことは言わないことにして、仲間を増やしていったので…
今は250人から300人近くが担ぎに来るので、新しい同好会等はもう断っているくらいです。
ある意味、開かれた睦、という感じでしょうか?
そうですね。
貸し半纏だけでも100ぐらいはありますが、それでも足りなくなっちゃいますから。
私が入った頃は厳しかったが、古宇田さんから、前会長の沢田、私も考えが一緒だったんでやろうやろう、と広げていったんです。
常に時代にアジャストしてきた宮本睦、次の世代に託す思いは?
そこが悩みなんです。
睦の役員になるメンバーなんですが、うちは丁度そこの世代が居ないんですよ。
今は50代60代がメインで、30代40代が本当に居ない。
住宅街の年齢層の問題もあって、なかなか若い人がね…
でも、宮本睦はゆるやかに広げていく方針ですし、若い子も少しずつではありますが増えているので期待はしています。
今年のお祭りにかける思いは?
私は、今年は年番なので「お祭りは是非やりたい。宮入りもしたい」と睦の全体会議でも言いました。
もちろん、コロナがひどくなり中止になるのはしょうがない、しかし出来るのであれば、是非やりたい! みんなも反対はしなかった。担ぐ場所はたとえ少しだとしても、やりたい。
今の段階では(注:7月19日時点)神酒所と御仮屋は開く。
最低限、高張り、山車、トラックに積んだ神輿のコースだけはやる。
これは決めています。あとの担ぐ、担がないは、もう今の気持ち、ですね。
代五睦、代四睦と代沢小学校の裏で距離を置いて集まり、神社の前まで少しだけでも担ごうかと、計画はしています。
この数年、神酒所も作っていないし、神輿も組んでいない。
なにもやっていないとなると2年、3年で忘れちゃうから、また一から勉強してやらなくてはいけない事になってしまう。
今年は、そこは絶対にやりたいと思っています。
各睦ごとにそれぞれ歴史が築いてきたやり方もあるし、私達はそれを代々、教えていかなければいけないんです。
とにかく、手ぬぐいは発注しました。8年に一回、年番の色は朱鷺(とき)色と決まっているんでね。


本日はどうもありがとうございました。
(インタビュアー・文/代四睦総代 伊東雅司)