『鮮やかに甦った神輿に未来を託す』
牧野浩明


代四睦会の牧野会長に、睦会の歴史や「栄龍会」の成り立ち、未来への思いなど貴重なお写真とともにお話しいただきました。
※インタビューは、例大祭前の令和2年7月に北澤八幡神社にて収録。

牧野会長がお祭りに関わり始めたのはいつ頃でしょう?
生まれた時からですね。
うちの親父は戦後、麹町から、戦災からの復興の時期に、ここ北沢に引っ越してきたの。
元々、親父は表具屋だったんでね、で、とにかくお祭りが大好きだった。麹町の頃は山王さんのお祭りで、家では御酒所までやってたほど。
こちらでも親父は睦の役員やっていて、それで生まれた時から。
この写真が、小学校一年の頃かな?


この写真に写っているのが、今年修繕された御神輿ですよね。
そうそう。実は、今の『代四睦』と『代五睦』、もともとは旧北沢一丁目で一つの睦だったの。今の神輿は、その当時から担がれていたんだよね。
それが昭和39年の町区域の変更により、旧北沢一丁目が、代沢四丁目と五丁目に分かれたの。
でも、その後も昭和50年くらい迄はこの神輿を『代四睦』と『代五睦』が毎年交互にやってたわけです。だから北澤八幡の神輿は七つしか無かったんだよね。
一年おきに持ち回りで御酒所も一年おき、今年は代四睦側、今年は代五睦側と交互に建ててね。で、当時は五丁目には勢いがあったんだよね。
「自分たちで新しい神輿を造る」って事になって、そしたら、こっちの役員も「よーし、今だ! 買い取っちゃおう」ってんで買い取った。
当時の総代だった加藤銀次郎さんが、だいぶ出してくれたらしいよ。

もともと同じ睦だった『代四睦』と『代五睦』。 それが分かれてしまって、いろいろ大変だったのでは?
そもそも、旧北沢一丁目の頃から
「代田の中に北沢が入ってきて、なんだよ」
と言われるように、代田八幡神社の氏子エリアが飛び地になって入り組んでいて、代沢四丁目エリアの全部が、代四睦のエリアじゃない、エリアが狭い。
代五睦の方には商店とかもあり、やり手の担ぎ手も多かった。
代四睦には住宅街が多く、担ぐ人も少なかった。
まぁ、今はうちも多いけどね。
そこで立ち上げたのが『栄龍』という組織なんです。

今や代四睦のお祭りには欠かせない『栄龍會(えいりゅうかい)』。
これは牧野会長の世代が創られたと聞いていますが、どんな目的で立ち上げたんですか?
当時、僕は20歳。若いなりにも「この睦を、北澤八幡で一番でっかくしてやろう」と思った。
その頃の、先ほども言ったように、うちの大人御輿は、代五睦と分かれたことや、飛び地などいろいろあって、スカスカだった。場所的にも一番外れでね、うちの役員も肩身が狭いだろうと想いとにかく人数を増やしたかったんだよね。
だって、本当の代沢四丁目に住んでいる睦のメンバーは4、5人くらいかな。
そこで『栄龍』が、地元を中心に同世代の仲間とか、その後輩とか、とにかく若い担ぎ手を集めたんですよ。青年部のようなものかな。代田地区が多かったな、だいたい世田谷区内からの参加が多かったですね。
地域の若い勢いのある奴らが『栄龍』に集まってきた。
惣町の方からも『栄龍』は認められて本社神輿(当時は惣町神輿)も栄龍の半纏で神輿を担げたんですよ。
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それから『栄龍』でいろんな地区の祭りに担ぎに行って、都内は元より、全国に交流を広め、今では北澤の祭りの時には、日本全国から担ぎにきてくれるんですよ。
これも、祭りを通じての交流が続いてね、見事、花開いたって事ですかね。
さらに、ここ数年で『代四睦』の半纏が増えてきた、若い人たちも増えてきた。
今年、その『栄龍會』も40周年を迎え中野サンプラザで記念式典を開きました。と、同時に役員もぐっと若い世代に代替わりをして未来を感じさせてくれましたね。

ところで、今年、見事に甦った代四睦の御神輿、実は、神社の巨大な『宮御輿』と同じデザインというのは本当ですか?
そう、『宮本』という老舗の神輿屋で、東の方は分家の東京浅草の「卯之助」。
でも、だいぶ御値段が高いので最近では南部屋さんで造る睦が多いね。
今回、うちも修繕は南部屋さんに頼んだのよ。
修繕すると自分のお店の看板に掛け替えるのが普通なんだけど、今回は「これだけの造りやられちゃったら」と、南部屋さんは看板を『宮本』のままにして、自分たちのは裏側にそっと飾っていました。
やはり、今年の年番に合わせて完成するように修繕計画を進めたのですか?
いや、もう屋根なんか、だいぶ傷みがひどくなって「早くやんなきゃ、大変なことになっちゃう」って。
本当は2、3年前にやるつもりだったの。
でも、ちょうど神社の550周年と重なって延期したんだよ。神社も謝ってきたけど、やっぱりWじゃあ寄付も集まりにくいしね。
で、「うちは後でいいよ」ってっ言ってたら、偶然、年番が近づいてきたんで。良いタイミングになりました。
素敵な仕上がりになりましたが
どんな発注をなさったのですか?
基本的には原型のままに直してもらった。最初は予算は言わず、見積もりをグレードに合わせ4通り出してもらいその中で、とにかく子供神輿もやろうと言うことになって…。
結局、それらを予算に合わせて、チョイスして頼みました。そしたら山車もサービスで直してくれました。
結局10ヶ月、預けていたんだけれど、あそこまで艶を出してくれるとは思わなかったな。うちの神輿は木の彫り物が多いのに細かい所まで丁寧に塗って頂き、最高の仕上がりでした。


やはり、今回の大修繕! いろいろな方々からのご支援があったのでは?
一昨年、北沢緑道の桜祭りの時に婦人会の皆様が中心に企画して、バザーを開いて頂きこれが大きな支えになりました。さらに睦会のメンバーはもちろん地元の方々からも、沢山の寄付をいただいてこんなに立派に修繕できました! 本当にありがとうございました。

会長としてはこの大修繕に、どんな想いをこめているのでしょう。
先ほども言ったように、大人の神輿と共に子供の御神輿も綺麗に修繕したんですよ。
実は子供の半纏のほうが先に、もう新調していまして、これがね、大人のよりも良いね、全然、凄いのを作っちゃったから。
嬉しいことに子供の数も最近増えてるんです。
ただ、残念な事にここ数年、子供神輿の宮入が出来ていない。
日曜日に雨が降ったりで、かわいそうなの。
なんとか、来年はやらせたいね。
なんとか次世代に、しっかり祭りを伝えたいよね。

ところで、来年は3年に一度の、あの大きな宮神輿が渡行する年に当たりますが、
そのきっかけとなったのが、前回の年番の時、8年前の代四睦だったそうですね。
そうそう。
2012年、今から8年前、前回の年番の時だね、代四睦の発案で今の宮神輿の渡御が始まったんだよ。
これが、その時の写真。ここで、木(拍子木)を持っているのは、私ですね。
その時は代四睦だけで出しちゃいました。
まぁ、これからも一睦で出すことはないんじゃないかな。
当時は、まだ宮神輿じゃなかったんで「出したいところがあったら言って下さい」って感じだったの。
で、年番が廻ってきた時に「うちはやるぞ」となって、300人集めましたよ。いつもの1.5倍に増やせと。
目的は町内の活性化。
で、これを機会に、若手がずいぶん、増えてきたんですよ。他の睦もみんな見に来たよ。
あの宮神輿の渡行は、まぁ、それまで培ってきた代四睦と『栄龍会』の絆の集大成でもあり、さらなる睦の広がりへのきっかけでもありましたね。
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本日はどうもありがとうございました。
(インタビュアー・文/代四睦総代 伊東雅司)