

再開発により激変を遂げつつある下北沢。戦前に下北沢駅南口商店街で生まれ育ち、北澤八幡神社の八つの睦会の誕生を見届けた貴重な世代、南部睦の瀬川会長にお話をうかがいました。
伝説の金子省吾睦会長のエピソードや、金子氏の長女で世界的に活躍するミュージシャンでもある金子マリさんにもお話いただいています。
語り継ぎたい先人の思いを、受け取っていただけたら幸いです。
※インタビューは、例大祭前の令和6年6月17日、北澤八幡神社にて収録。

『「北澤八幡の祭り」その興隆の原点とは』
瀬川弘之
まず最初に「南部」という名前からふれさせて下さい。
南部睦とは、どこらあたりまでが範囲となるのでしょうか?
北沢二丁目の南側と代沢五丁目の一部、「下北沢南口商店街」と「あずま通り商店街」という二つの商店街が睦の中心ですね。
まさに下北沢の顔、とも言えるメイン通りが南部睦さんの中心なんですね。
瀬川さんも、生粋の下北沢っ子と聞いていますが?
実家が、南口商店街で時計屋をやっていてそこで生まれたんです。
私は昭和10年に生まれてから、今もそこに居ます。生まれた家から離れていないんで、ずーっと下北沢ですね。
小学校も代沢小学校で、2年生の時に空襲では下北沢に焼夷弾が落ちてきました。
それで、学校のみんなで長野の松本、塩尻のお寺に集団疎開していました。
本堂で寝て、トイレは外。淋しくて泣いている子供も居ましたね。
まさに下北沢の歴史の生き証人とも言える瀬川さんですが、お祭りとの関わりはいつ頃からですか?
中学の頃から時計屋に出て修理とか修行をしていたんですが、その店の前を神輿が通りましてね、それが出会いかなぁ。
高校を卒業してからは、もうお祭りに専念しました(笑)。

その頃にはもう、戦争も終わり日本全体が復興に向けて頑張っていた時代、下北沢のお祭りの移り変わりも間近で御覧になっていたのでは?
当時は金子総本店の金子会長がお祭りの中心でしたね。
祭を盛り上げようと、いろいろやっていましたが、私も、必ず一緒にくっついていたんです。
現在も南部睦で担がれている神輿も、その当時からの物とうかがっていますが?
現在も南部睦で担がれている神輿も、その当時からの物とうかがっていますが?

それまでは南部睦さんに神輿は無かったのですか?
戦争ですよ。
太平洋戦争の末期、国から金属類回収令というのが出て、私が子供の頃に店の前を通っていた昔の神輿は、その時に供出したんです。
で、戦後はしばらく、浅草の商店から神輿を借りて担いでいたんです。
当時は、私が借りに行きました。
でもやっぱり、自分たちの神輿がなくては……という声が大きくなり、浅草で購入することになったんです。

その時の金子会長が豪快だったという伝説を聞いたことがあるんですが。
そうなんですよ。
金子会長と私、2人だけで浅草の神輿屋さんに行った、その日ですよ。
飾ってあるのを見て、いたく気に入って「あ、これちょうだい」って言って、その場で小切手を切り購入したんですよ。
当時のお金で確か750万円くらいだったかな? わたし、一緒に行って、側で見ていましたから、これは間違いないです。
「これちょうだい」ですよ(笑)。
で、帰ってきて、みんなから集金したんですけどね。
計画的に購入するよりこうやって、ドンと買って、みんなにお金を募ると「しょうがねぇな」となって、祭り好きは払いますもんね。
本当に金子さんは、凄い侠気(おとこぎ)というか、豪快で、行動力のある方だったんですね。
人間的に、そういういう人だったんじゃないですかね。
無口なんだけどね、なにしろ、やろうと決めたら、必ずやる人でした。
金が無かったら、自分でなんとかしてでも、やっちゃう人ですよ。

最下段中央の眼鏡をかけているのが金子省吾氏。左端に腰掛けているのが瀬川会長
浅草で神輿を即買いした伝説の会長、金子総本店の金子省吾さんについて、さらにお伺いしたいのですが……
実は「八町会による惣町睦」という今の北澤八幡のお祭りの形を作り上げた功労者としてこのインタビューシリーズでも、度々お名前が上がったりしているんですよ。
当時、お祭りはなにしろ金子さんが中心でしたね。
それまでも北澤八幡でのお祭りはあったんだけど、現在も続く、この形の祭りにしたのが金子さんです。
八つの睦会を作ったのも、こういう風に祭りをやろうと金子さんが地域分けして、それぞれの睦の名前も「○○睦」って作ったんですよ。
本当に最初の形を作ったんです。

なるほど、現在の北澤八幡のお祭りの誕生秘話ですね。
しかし、それまでのお祭りを改革し、そんなご苦労までしてなぜ、祭りをこの形を作られたんですか?
それは祭りを盛り上げたいという一念からでしたね。
それぞれバラバラにやっていた祭りをみんなまとめて一つの下北沢として、大きくする、盛り上げようという想いからでしたね。

今にしてみれば、まさに大成功の改革でしたね。
でも、当時、それぞれの地区の祭りでトップだった人達をまとめるには、相当な苦労なさったのでは?
大変だったとは思うけど、けっこう上手くいきましたね。
みんなお祭り好きなんでね。お祭りを盛り上げようとすぐまとまりました。
金子会長の強い祭りへの想いと、私も当時メンバーだったのですが、南口の「あずま会」の有力者達で立ち上げた「15人会」などで培った広い人脈がみんなを動かしたんだと思いますよ。
瀬川会長のインタビューに登場した故・金子省吾睦会長について、長女で世界的に活躍するミュージシャンでもある金子マリさんにお話しをうかがいました。

お父さんとお祭りの想い出は?
父と瀬川さんが、浅草でお神輿を買った時のことはよく覚えています。私はもう大人でしたから。
父はお金を集めるのも苦労していましたね。
でも、(葬儀の)仕事を下北沢でしてましたから、それで祭りの借金の肩代わりをしていました。
お父さんはお祭りの事が大好きだったんですね。
とにかく一年中、お祭りのことを考えている人でした。20歳から亡くなる63歳まで、ずっと祭りに関わっていましたから。
スーパーオオゼキの前の角が、金子総本店で自宅でしたが、祭りの時は、私もその2階で、子ども用のお菓子の袋詰めを手伝いました。
当時は、今よりも地域に子どもがたくさんいて、『お祭りは子どものためにあるのだ』と、父はよく言っていました。
マリさんの今のお祭りへの想いは?
昔、例大祭は9月18、19日でしたが、台風が多かったため、会議をへて9月の第一週の土日開催に変わりました。そのため、暑いお祭りになってしまいましたね。
街が変わり過ぎて、肉屋さん魚屋さんは消え、貸しビル業に変わり、今や古着タウン。
でも、祭りのように残さないといけないものは残したいですね。
金子マリさん、取材協力ありがとうございました。
さて今年のお祭りでは、いよいよ3年に一度行われていた、巨大な『本社神輿』の渡御が復活します!
前回はコロナ禍で中止されたので、実に6年ぶりとなります。これで、北澤八幡のお祭りが完全に元の姿に戻ったと言えます。
今年の年番である「南部睦」会長としては熱い思いがあるのでは?
みんな神輿が好きなんで大いに盛り上がっていますよ。
ただ、今回は『本社神輿』が町内を渡行するので、担ぎ手を確保するのにどこの睦も苦労しているみたいですね。何しろ大きな神輿ですから。
その町内渡行のコースでも、道幅の関係でご苦労なさったと聞いていますが?
『本社神輿』はドンキホーテの前の道を通ります。
南口商店街のメイン通りは道幅が狭く、大きな『本社神輿』は店先にかかってしまうので……曲がれないんですよ。
もちろん、南部睦の神輿は南口商店街を渡御します。
金子会長と浅草に神輿を買いに行ったときもそんなこともあって神輿は「大きさ」ではなく、「質」にこだわっていたんですよ。
まぁ、担ぎ手が多くなかったこともあったのでね……

どこの睦も担ぎ手の確保にいろいろご苦労がある様ですが、南部睦さんは商店が多い地域だけにお祭り好きも多いのでは?
商店の数だけでいったら、大した事ないんですよ。だから、商店だけでは祭りは成り立たない。
お祭り好きは多いんですが、サラリーマンの方も多くてね、奉納の方がなかなか……
ただ、やはり下北沢という街が人気があるのでね、特に頼んではいないけれど、他所から担ぎに来てくれるので本当に助かっています。
駅から近いからかな? とくに例年、神田あたりから沢山の方が担ぎに来てくれますね。
今の北澤八幡の祭の原点を作ったとも言える南部睦ですが、これからはどんなお祭りの未来を描いていますか?
私は会長になって23年になりますが、そろそろ後進にゆずりたいと思っています。
これからは新しい世代で祭りを盛り上げていってもらいたいですね。
南口商店街も古着屋さん等、新しいお店も続々とオープンし、人気アニメの舞台となったり、と、今、凄い人気ですが……
ところが新しいお店の方の中に、お祭り好きが少ないんですよ。
でも、本当に商店街に人が集まっているので、それを、なんとか祭りに巻き込んでいきたい……
街の勢い、パワーで祭を盛り上げていけるとと良いですよね。



今年から本多劇場グループが、提灯を出してくれます。
下北沢の顔でもある劇団やミュージシャンの方達をお祭りの輪に巻き込めると、ますます盛り上がりますからね。これからの南部睦さんには期待しか有りません。
本日はどうもありがとうございました。
6年ぶりの『本社神輿』の渡御、大成功を祈願しています!
(インタビュアー・文/伊東雅司)